『シャベ・ヤルダ−*』−夜ということ−
*冬至の夜のこと |
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あらすじ
------------------------------------------------- 1年で一番長い夜、僕は夢を見た。 夢の中で、お兄ちゃんに言った:「僕、名前がないんだけど。」 夢の中で、お姉ちゃんに言った:「僕、名前がないんだけど。」
夢の中で、お父さんは、僕は川なのだと言い、お母さんは星だと言い、おばあちゃんは花だと言った。
夢の中で、僕はおじいちゃんにこう言いたかった:
とその時、おじいちゃんの優しい声が聞こえ、僕は夢から覚めた。
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雑感 この本との出会いはさほど印象的なものではなかった。いつものように絵本をまとめ買いする時に、何気なく買い物かごに入れられた1冊で、表紙に特に惹かれたわけでもなかった。まあ、魚が2匹泳いでいる上を頭半分だした子が、こちらをじっと見ている、という絵(しかも青だけ)は、明らかに普通 な感じではないので、買ったということはやはり何かひっかかるものがあったのだとは思う。 しかし、この絵本は後に、かけがえのない大切な1冊となった。 こんなことをいうと、「冬至の夜の話なんだから、当たり前じゃない?」と思われるかもしれない。
わたしは、「この『シャベ・ヤルダー』というタイトルの本は、その夜になされる、季節はずれのスイカを食べたり、家族でゆっくり話をしたり、といった行事について書かれているのだろう」という勝手な思い込みにとらわれていた。その時、「夜」というものはその行事を提供する舞台ぐらいにしか感じていなかったのである。 しかし、実際にページをめくってみると、夢の中で名前をなくし、それを探しにいくという途方もないストーリーと、ファラフ・オスーリーによって描かれた、いつでも霧の中に佇み、決してその視線が合うことのないばらばらな印象の登場人物たちは、「夜」という、光のない、全ての輪郭を曖昧で不確かなものにしてしまう時間というものを見事に表現していた。それは紛れもなく「夜」であったのだ。 わたしはこの本を読むたびに、この、名前をなくしてその存在さえも曖昧になり、不安なはずなのに、どこか身軽な感じもする主人公「僕」とともに、長い長い夜をふんわりと移動していくような心持ちになる。それはとても贅沢な気分だ。そして、おじいちゃんによって名を呼ばれ、朝の光とともに「自分」へと無事着地できる物語のラストも安心できる。 先入観を鮮やかに覆されたという驚きと、「夜」そのものが物語として迫ってくるという新しい体験によって、この本はかけがえのないものになったのであった。 というわけで、ほんとに傑作だなぁ、と思うのだが、この雑文がその素晴らしさをきちんと伝えているとは、到底思えない。
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